网站大量收购闲置独家精品文档,联系QQ:2885784924

上田章先生(1833-1881).doc

  1. 1、本文档共16页,可阅读全部内容。
  2. 2、有哪些信誉好的足球投注网站(book118)网站文档一经付费(服务费),不意味着购买了该文档的版权,仅供个人/单位学习、研究之用,不得用于商业用途,未经授权,严禁复制、发行、汇编、翻译或者网络传播等,侵权必究。
  3. 3、本站所有内容均由合作方或网友上传,本站不对文档的完整性、权威性及其观点立场正确性做任何保证或承诺!文档内容仅供研究参考,付费前请自行鉴别。如您付费,意味着您自己接受本站规则且自行承担风险,本站不退款、不进行额外附加服务;查看《如何避免下载的几个坑》。如果您已付费下载过本站文档,您可以点击 这里二次下载
  4. 4、如文档侵犯商业秘密、侵犯著作权、侵犯人身权等,请点击“版权申诉”(推荐),也可以打举报电话:400-050-0827(电话支持时间:9:00-18:30)。
查看更多
上田章先生(1833-1881)

上田章先生(1833-1881) 三浦安「上田先生之碑」1頁 井上従吾「尚志上田先生壙誌」4頁 堀内信「南紀徳川史文学伝附記」8頁 松崎慊堂『慊堂日暦』より 11頁 谷干城『隈山詒謀録』より 12頁 堀内信『晦結溢言』より 12頁 『南紀徳川史』より 13頁 我妻東策『士族授産史』より 14頁 上田貞次郎『上田貞次郎日記』より 15頁 「故上田先生建碑捐金姓名」 16頁 【上田先生之碑】(青山墓地1種イ3号3側8番に現存) 上田先生墓碑    正二位侯爵徳川茂承篆額 上田先生篤行人也。能勤学以成父志、能獲於名藩賢主、忠孝一致、矜式国人。当時紀藩、称先生、則不問而其為上田氏。可謂盛矣。先生歿之五年、友朋相謀建碑墓前。旧君主正二位徳川侯、親書上田先生之碑六字。可謂栄矣。先生名章、初名貞固、字子幹、称専太郎。以天保四年生於江戸。考直吉、妣松林氏。家世商賈、直吉慷慨好読書、不甘其業。欲使先生成其志。生五歳、託金子杏庵、十歳託松崎慊堂。直吉即世、慊堂杏庵亦歿。先生従安井息軒塩谷宕陰講学、益勉。嘉永六年、入昌平学。西遊九州東到奥羽、広交天下士、卓然有立。其学、重倫理崇節義。以振起国家元気為務、好奨励後進。文久二年、先生年二十九、以藩士齋藤桜門、井上従吾等薦擢、為明教館寮長。館江戸邸学也。先生以身率先、諸生翕然作興。其在和歌山、亦同人皆敬而親之。元治慶応之際、尊攘説起。先生赴四方、察時情、陰賛藩議。明治維新、釐革藩政、擢為公用局副知事。迨廃藩置県、随徳川侯徙東京、為家扶。八年、赴和歌山、督南龍社建築事。十年、西南役、随徳川侯、於西京、於和歌山。十二年、随世子、於和歌山、於松阪。其間往来和歌山、殆無虚歳、遂罹胃病。侯臨其宅、恵慰特厚。終不起、実明治十四年八月十四日、享年四十有九矣。配松尾氏、有子二人、長敬太郎、次貞二郎。侯特給敬太郎学資、継先生之志。先生性直実淡泊、好義喜施。書生頼、以就学者不知幾人。嗜酒対人、必飲酒間、説忠臣孝子節婦義僕之事。慷慨淋漓、使聴者感奮興起。所著南龍公年譜、香厳公遺事、紀伊徳川氏年譜、南紀名臣言行録、詩文若干巻。十六年七月、太政官召敬太郎、伝命曰、爾父章、十年西南騒擾之際、尽力不少、追賞賜金若干。嗚呼先生之志、於是乎可見矣。余自始識先生、三十余年如一日、与井上従吾最為其旧識。従吾既誌其壙、余不可以不銘。其碑銘曰、 忠孝之人、冝保遐年、命之不延、慶流後昆。 明治十九年十一月 元老院議官従三位勲三等三浦安撰文               従五位長炗書   吉川喜石鐫字 《読み》 上田先生墓碑   正二位侯爵徳川篆額 上田先生は篤行の人なり。よく学に勤め、もって父の志を成し、よく名藩賢主をて、忠孝を一致せしめ、国人をしてせしむ。当時の紀藩、先生と称すればちその上田氏たることを問わず。盛なりというべし。先生歿して五年、友朋あい謀りて墓前に碑を建つ。旧君主正二位徳川侯、上田先生之碑の六字を親書す。栄なりというべし。先生、名は章、初名は貞固、は子幹、専太郎と称す。天保四年をもって江戸に生まる。は直吉、は松林氏。家世はなりしも、直吉慷慨して読書を好み、その業に甘んぜず。先生をしてその志を成さしめんと欲す。生まれて五歳、金子に託し、十歳、松崎に託す。直吉即世し、慊堂、杏庵また歿す。先生、安井、の講学にしたがい、ますますむ。嘉永六年、昌平学にる。九州に西遊し奥羽に東到して、広く天下の士に交わり、卓然として立つ。その学は、倫理を重んじ節義をぶ。国家の元気を振起することをもって務めとなし、好んで後進を奨励す。文久二年、先生年二十九、藩士齋藤桜門、井上従吾らのをもって、明教館寮長となる。館は江戸邸学なり。先生身をもって率先し、諸生としてす。その和歌山にあるや、また同人みなこれを敬して親しむ。元治慶応の際、尊攘説おこる。先生四方におもむき、情を察し、藩議を陰賛す。明治維新、藩政をし、んでられて公用局副知事となる。廃藩置県におよび、徳川侯にきて東京にゆき、となる。八年、和歌山におもむき、南龍社建築のことを督す。十年、西南役、徳川侯にきて西京、和歌山にゆく。十二年、世子にきて、和歌山、松阪にゆく。その間、和歌山に往来してほとんど虚歳なく、に胃病にる。その宅に臨み、恵慰すること特に厚し。にたず、じつに明治十四年八月十四日、享年四十有九なり。配は松尾氏。子二人あり、長は敬太郎、次は。特に敬太郎に学資を給い、先生の志を継ぐ。先生、性は直実淡泊、義を好み施すことを喜ぶ。書生頼み、もって学に就く者なるを知らず。人に対して酒を嗜み、必ず飲酒の間、忠臣孝子節婦義僕のことを説く。慷慨として、聴く者をして感奮興起せしむ。著わすところ、『南龍公年譜』『香厳公遺事』『紀伊徳川氏年譜』『南紀名臣言行録』、詩文若干巻。十六年七月、太政官敬太郎を召し、命

文档评论(0)

170****0532 + 关注
实名认证
内容提供者

该用户很懒,什么也没介绍

版权声明书
用户编号:8015033021000003

1亿VIP精品文档

相关文档