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4鸟取県神社志による神社
4 鳥取県神社誌による神社
神社誌による町内
の神社
宇野神社
湊神社
北野神社
梶屋神社
宮本神社
長瀬神社
田後神社
田後神社に関する 以上で田後神社創始以来の経歴?神事?現状の概要はわかると思うが、なお、幾多の記録?口碑など、いま
氏子総代保管の資 後世に残しておかないと消滅してしまうおそれもあるので、ここに補足しておきたい。
料 まず、創立年代と祭日との関係であるが、氏子惣代保管の社記によれば、
○創立 宝徳2年(長瀬神社創立の翌1450年)8月天日(彼岸の入りの日)云々とあり、この方が昔の祭日であって正確である。鳥取県神社誌のできたころは新暦になおされていたが、昔は、もとより9月17日とは定まっておらず、その年の彼岸の入りに大祭が執行されたのである。
神社名関係記録 ○神社名 古いものでは、元文2年の明細帳に大法(宝)天王とあることは、最初にあげたとおりであるが、
イ、享保20年10月6日社帳面に大宝天王(池田神官家の古文書)
ロ、祭日覚書 本社大宝天王祭日、春秋彼岸の入、神主和泉、末社八大荒神、祭日正?5?9月28日
(元庄屋磯江庄次郎宅記録)
ハ、寛政3年亥4月○日屋根葺替成就遷宮願、田後村氏神大宝と記す(同上) 寛政7年社帳同上
ニ、文久3年大月神社棟札寫、大宝天皇(嘉永3年も同様であったことは前記書上帳のとおり)
ホ、明治4年6月25日御神体新造。ちなみに、旧御神体は僧形であったが、神仏分離の際に焼却を命ぜら
れて、頭人連中のはからいで一応頭人宅にされ、ほとぼりのさめるのをまって、また神社に納められ、
今に保存されているという。
社地変遷関係記録 ○社地の変遷 勧請当時は、天神川旧河道の関係か久米郡江北村字「大ボン」(今の字古屋敷)に勧請鎮座(磯
江庄次郎翁の話では大ボンノが正しいとのこと)、後、今の社地田後字西屋敷808番地に遷座。
元反別9畝24歩。然るところ、明治39年7月30日6畝5歩を田後神社へ拂下げられ、民有地境外山林(国定保安林808番地1)とす。よって明治42年5月25日付民有地編入登録申請。
別に宅地809番第1宅13歩参籠所敷地、809番第2宅地15歩随神門?神輿庫敷地(境内接続地)、神社有民有宅地これ又明治42年3月11日登録済であったが、大正9年現境内坪数が村社正規に達しないとのことであった(註?これは、神社合併問題のとばっちりで、社格と神饌幣帛料供進社認否に関する一大事。)。そこで、大正9年8月30日付で本県知事に誤謬発見の訂正方出願したところ、あらたに境内に編入するよう其筋の指令を受け、同年12月19日付旧境内地193坪へ809番第1の13坪?同番第2の15坪合計28坪を編入方出願済、大正10年2月編入完了して報告済となる。よって、現境内坪数総計221坪にあらたまり、ようやく社格相当の境内となることができた。
こんな事情は町内各社にもあったであろうし、氏子数?信者数が充たなかったり社有財産がなかったりして、合祀という名目で事実はとりつぶしの憂目にあった神社も少なくない。いちいち細かに調査する余日がないので田後神社の一例を示した。(田後神社沿革誌による)
祭日関係記録 ○祭日の由来 社伝によって祭典祭礼の由来を調査してみると、当社祭事は、勧請の初めから明治維新までは、勧請の日にちなんで春秋2季の彼岸の入りに年中両度の例祭を行って来たが、明治5年例祭は9月20日と定め、3月18日をもってとした。また、6月15日には式も行なわれていた。それから明治44年2月秋季彼岸の入りに復し、祈年祭を春季彼岸の入りと定めた。
特殊な神事献供祭の由来は既に述べた通りであるが、なお補足すべき点は、頭人5人の者が献供田1反4畝10歩を寄進し、人糞肥を施さず、草肥のみを使用して作った米を供饌すること、一夜造りの七神酒(濁酒)を醸造して供えることなどが伝えられていた。これは、出雲の本社八重垣神社の神事にのっとったものと伝えられる。献供玄米飯3杵半搗きのことは、勧請の時刻が予定より早く、急場に間にあわせるよう早搗きしたとも伝えられている。
○田後笠(神社と田後の副産業) 菅笠はいまでも田後の副産業として有名である。平坦な水田の中の集落田後村は、農家の平均作田面積は長瀬より少なく、何か副業によって補わねば生活が立たない部落であった。そこへ「出雲八重垣さま」を勧請する機会に、その地?出雲から御分霊とともにの苗をもって皈国し、これを繁殖させて菅笠づくりを始めたと伝えられる。今では国内はもとより外国へも販路をひろめ、数百年続いている田後唯一の副業となった
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