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1.「日本的身体」
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UTCP ワークショップ 身体の思考 感覚の論理(2004-12-11)
日本的身体論の形成──「京都学派」を中心として(横山太郎)
構成
1. 「日本的身体」
2. 「京都学派」と現象学
3. 初期西田哲学における身体
4. 浮上する身体性──田辺元における弁証法と人間学
5. 日本的「身体論」から「日本的身体」論へ
1. 「日本的身体」
戦後の日本では、日本文化に固有の身体性がしばしば論じられてきた。それは人々の日常の起居(ハビト
ゥス)に浸潤し、禅仏教、武道、芸能などの修行や技法のうちに実践的に表現され、中世においては、道元
の宗教的テキストや世阿弥の能楽伝書のような、理論的な知として結晶化された。そしてそれは明治以降の
近代化によって失われつつあるものの、現代の舞踊や演劇にはそれを取り返そうとする試みも見られる──
というわけだ。しかし、このような「日本的身体」は、歴史的な実在というよりは、むしろそれを論じる当
の言説が生み出すパフォーマティブな効果というべきである。まずはそのことを、「日本的身体」の諸例を簡
単に検討しながら、示しておこう。
まず、武道や相撲、能?歌舞伎に見られる腰を据えた構えや、腕の反動や上体の捻りを利用しない摺り足
の歩行について。演出家?評論家?パトロンとして戦後日本の伝統演劇に大きな影響を与えた人物である武
智鉄二は、かつてこれを「ナンバ」と呼び、それを水田農耕に根ざした前近代の日本人の標準的な身の扱い
方であるとしたが、学問的にはとうてい従いがたい論拠に基づく主張であった。のちに三浦雅士は、著書『身
体の零度』において、武智説を援用しながら、明治以降に身体に対する国家的な規律訓練の実施によって伝
統的な身体性が失われ、脱―文化的な「近代の身体」が登場したと論じた。こうした言説を通じて、「ナンバ」
説はあたかも伝統的な日本人の身体性についての事実であるかのように見なされるようになる。「ナンバ」を
めぐる書物は、近年の出版界における大きな流行にすらなっている。しかし、たとえばナンバの代表例とし
てあげられる能の姿勢や歩行法は、能の成立当初はまったく異なっており、むしろ上下に躍動するダイナミ
ックなものだった。それが、個別具体的な歴史的要因や能役者個人の工夫によって変化を被り、近世に至っ
てようやく現在目にするのに近い技法のシステムとして確立したものであって、列島に生きる大多数の人々
が共有する伝統や日常生活の全体性──仮にそのようなものがあったとして──のうちから自然発生したも
のではない。後者の見方では、たとえば能の歴史において世阿弥のような天才的な人物が起こした身体技法
の革新までも、「日本文化」の全体性のうちに解消されて見失われてしまうだろう。
芸事やスポーツの場面で、しばしばその重要性が語られる「型」はどうだろうか。「型」は、個人的意識に
よる自由で自然な身体の操作を否定し、世代を超えて継承される定型の身の扱いを反復稽古することで身心
脱落の境地に至り、個の限界を超越することを目指す、日本的な身体性の理念として理解されている。その
代表的思想家の例として、しばしば言及されるのが道元と世阿弥である。しかし、そのような意味での「型」
について、実は彼らは一言の言及もしていない。そもそも、道元や世阿弥という形象そのものが、20世紀初
頭の学術研究によって、日本文化史に登録されるべく発見されたのである。明治末から大正にかけて、吉田
東伍の『世阿弥十六部集』や、和辻哲郎の「沙門道元」が西洋思想に対抗しうる思想家として彼らを見出す
までの数百年にわたって、宗門や流派の外部において道元や世阿弥の名を知るものは、知識層にすらほとん
ど存在しなかったのである。本来は「手順」ほどの意味で用いられた「型」が、上記のような形而上学的な
意味合いで語られるようになるのも、これ以後のことだ。
ところで、「日本的身体」の実在性をめぐって私が以上に述べた主張を、予想される反論をふまえてより説
得的に展開しようとするならば、自明と思われた諸「伝統」に対する構築主義的批判と、それらの実在性を
一定程度擁護する立場との論争をも参照しつつ、より詳細な議論を積み重ねていく必要があるだろうが、そ
第二セッション:身体から感覚へ
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れはここでの目的ではない。さしあたって、日本固有の身体文化と見なされているものについての私たちの
知識が、それについて語る文化主義的言説を通じてまずもって提供されているということ、そしてそのよう
な言説を生み出す「身体」への強い関心が近代以降の日本に存在することが、ここで確認できればよい。そ
の上で、私は次のような問題について考えてみたいのだ。すなわち、このよ
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