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一「思想史」とは何か
一 「思想史」とは何か―「日本倫理思想史」に関する方法論的反省
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一 「思想史」とは何か ―「日本倫理思想史」に関する方法論的反省
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島
元
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目次
(一)「日本倫理思想史」とは何か―相良亨「日本倫理思想史研究の意義」
(二)さまざまな「日本思想史」
―丸山真男「日本政治思想史一九六五」、黒田俊雄「思想史の方法―研究史からなにを学ぶか」
(三)「日本倫理思想史」の定義―和辻哲郎『日本倫理思想史』
(四)和辻倫理学の問題点と「日本倫理思想史」
[1]「倫理」の定義と和辻倫理学の構成
[2]内部と外部―「自然」と「宗教」の位置
①「自然」という外部
②「宗教」という外部
第一部 日本儒教についての研究
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)
(一) 「日本倫理思想史」とは何か―相良亨「日本倫理思想史研究の意義」
ここで以下、問題としたいことがらは「日本倫理思想史」という学問分野である。この分野は、そもそも
「倫理思想史」という言葉自体がおそらく一般になじみのうすいものであり、だれもが内容をイメージでき
るような自明の学問ではないかもしれない。またこんにち、それぞれの学問分野がたえず細分化しつつある
現状においては、各分野について判然としたイメージをもてないとしてもそれほど問題とするにはおよばな
いかもしれない。しかし、イメージだけではなく実質内容を問い、その分野の定義自体を検討して、しかも
なお判然としないということになれば、ことは深刻かもしれない。
ここでは方法論について議論する。何故方法論かというと、一つには「思想史」という学問分野の曖昧さ
が関係する。もう一つは、とりわけ「歴史」という学問をめぐる素朴な思いこみの問題がある。いまどき方
法論というのも青臭い感があるが、問題の所在をはっきりさせるためにはいちど整理する必要がある。
前者についてはのちにあらためて検討する。とりあえず後者について簡単に説明する。たとえば「思想史」
とは何かと問うと、素朴な理解として思想の「歴史」であるとする解答がある。この答えは、むろん間違っ
ているわけではない。「文学史」が文学の歴史であり、「経済史」が経済の歴史であるように、「思想史」は
思想の歴史である。
ただ、「思想史」については(実際はほかのテーマでも同じであるが)、思想なる客観的実体があって、こ
の対象を(あたかも自然科学の対象と同じように)、観察?検証して事象の内に法則(因果関係)を見いだ
すというような理解で、過不足なき説明となるかというときわめて疑問がある。これは、カントとかマック
ス?ウエーバ以来のきわめて古典的な問題であり、人文科学?社会科学は自然科学と同一の方法論を持つこ
一 「思想史」とは何か―「日本倫理思想史」に関する方法論的反省
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とができるかということである。論証は省略するが、結論としてはそのようなことはありえない。
若干極端な例かもしれないが考えておくべきことがらとして、昨今日本と中国?韓国との間にある歴史問
題?教科書問題がある。むろん日本が過去に中国?韓国に対して行なったことについて、事実は事実として
認めなくてはならない。だからといって、異なる国家?民族の間で歴史を共有することはありえない。歴史
は、すでに自明のものとしてあるような安易なものではない。歴史は、それぞれの国家?民族における個性
の自覚である。たんなる科学ではない。ようするに政治的所産以外のなにものでもない。むろん中国?韓国
の学問が、現状をこえて言論の自由を保障するようなものとなれば、今後共通の歴史を模索することもある
かもしれないが、当面はありえないだろう。
こうして「思想史」を思想の歴史とする解釈が素朴であるとすると、ここに「思想史」をめぐる方法論的
な反省が登場する。とはいえ、方法論そのものは基本的に二次的な議論にすぎない。「思想史」で問題とす
べきことは、個別研究(モノグラフ)である。方法論はその背後にある。
何故このような確認をするかというと、かつて思想そのもの(個別研究)ではなく、方法論だけで思想を
議論した不可解かつ不毛な時期があったからである。具体的には、マルクス主義(唯物史観)による思想史
解釈である。この立場では、「思想」(上部構造)は基本的に「土台」(生産諸関係)によって規定されると
する。この「思想」を「イデオロギー」(虚偽意識)という。この場合、「思想」それ自体には歴史はない。
あるのは「土台」の変化である。結果、思想史の内容ははじめから結論がきまっていた。個別研究が「土台」
解釈に変更を持ち込むことはありえなかった。
こんにち、さすがにマル
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