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境新一47‐7747‐77
1. はじめに
日本の近代資本主義の父と呼ばれている渋沢栄一は,第一銀行をはじめ,
500を超える株式会社を設立?支援した。渋沢は現代でいえば,日本社会
の近代化における創造者,プロデューサーといえる。
本稿は,渋沢の人と業績を概観するとともに,主著である『青淵百話』
と『論語と算盤』における信念,言行が込められた「言葉」を通して,渋
沢が今日に与えている影響,意義を考察したい。また渋沢の周辺に位置す
る実務家や研究者として,A?スミス,福沢諭吉,松下幸之助,稲盛和夫,
P?ドラッカーも含めて,近代日本の創造者,プロデューサーたる彼を支
えた「公利公益の哲学」について検証を試み,現代に求められる構想力,
実行力の原点を探ることとしたい。
2. 渋沢栄一の人と業績
2-1 幼少時代~徳川慶喜の家臣?幕臣時代
渋沢栄一 (1840-1931) は,幕末から大正初期に活躍した富農?武士(幕
臣),官僚,そして実業家であった。
渋沢は1840(天保11)年,現在の埼玉県深谷市に富農の子として生まれ,
幼名は市三郎といった。渋沢は,幼少より好奇心旺盛で,父親の薫陶のも
とで学問に専心し,7歳でいとこ,尾高新吾郎(惇忠)から,『論語』をは
近代日本におけるプロデューサー
としての渋沢栄一
―公利公益の哲学とその意義に関する考察―
境 新 一
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じめとする四書五経や,『左伝』『史記』『日本外史』を学んだ
1)
。
加えて渋沢は,剣術にも熱心であり,大川平兵衛より神道無念流を学ん
だ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹?尾高千代と結婚し,名を栄一郎と
改めるが,1861(文久元)年に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また
北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し,剣術修行
の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から1863(文久3)年に尊皇攘夷
の思想に目覚め,高崎城を乗っ取って武器を奪い,横浜を焼き討ちにした
のち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてた。しかし,惇忠の弟?
長七郎の懸命な説得により中止した。
江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣?平岡円四郎の推挙により一
橋慶喜に仕えることになった。主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣と
なり,パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟?
徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て,フランスへと渡
図 渋沢栄一
出典:「近世名士写真其2近代日本人の肖像」国立国会図書館所蔵
成城?経済研究 第201号 (2013年7月)
― ―48
航した。パリ万博を視察したほか,ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行
する。各地で先進的な産業?軍備を実見すると共に,将校と商人が対等に
交わる社会を見て感銘を受けた。約1年間にわたるヨーロッパ視察の体験
が渋沢の視界を広げる原体験となり,その後の人生にとって重要な意味を
持った。この時,渋沢は『航西日記』『巴里御在館日記』『御巡国日記』と
いう三つの日記を残しており,驚嘆すべき観察眼と吸収力で各国での見聞
を記録している。鉄道,電信,諸工場,上下水,博物館,銀行,造幣局,
取引所,化学研究所などを冷静に観察しており,後の渋沢の視座を構築し
たことがわかる。また,外国における銀行や株式会社の存在に注目し,今
後,近代日本に資本主義が展開する上でそれらが必要不可欠な要素と認識
することとなった。
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後,昭武はパリに留学するもの
の,大政奉還に伴い,1868(慶応4)年5月には新政府から帰国を命じら
れ,9月(1868年10月)マルセイユから帰国の途つき,同年11月(12月)
に横浜港に到着し帰国した。
2-2 大蔵省出仕~実業家時代
渋沢は帰国後,静岡に謹慎していた慶喜と面会したが,諭され自己の道
を進む決意をした。フランスで学んだ株式会社制度ならびに銀行制度を実
践し,新政府からの拝借金返済のため,1869(明治2)年1月,静岡にて
商法会所を設立するが,大隈重信に説得され,10月に大蔵省に入省する。
大蔵官僚として改革案の企画立案を行い,度量衡の制定や国立銀行条例制
定にも携わった。しかし,予算編成を巡って,大久保利通や大隈重信と対
立し,1873(明治6)年に井上馨と共に退官した。
退官後間もなく,官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀
行,第一勧業銀行を経て,現:みずほ銀行)の頭取に就任し,以後は実業界に
身を置いた。
近代日本におけるプロデューサーとしての渋沢栄一
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第一国立銀行のほか,東京瓦斯,東京海上火災保険,王子製紙(現:王
子製紙?日本製紙),田園都市(現:東急電鉄),秩父セメント(現:太平洋セ
メント),帝国ホテル,秩父鉄道,京阪電気鉄道
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