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研究論文西田幾多郎の思想形成.pdf

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研究論文西田幾多郎の思想形成

はじめに われわれは,一般に,学問のために学問をし, 哲学のために哲学をしている。しかし,それは, あくまでも表面上のことである。その背景にま で踏み込むと,ひとは,己の心や生き様のため に学問や哲学をしているのである。目的と手段 を取り違えない基本の姿を忘れがちである。西 田幾多郎の思想に触れるとき,その基本の姿を 想起させられる。 若き西田は,明治36年7月,33歳のある日 の日記に,次のように書き記している。「余は, 禅を学の為になすは誤りなり。余が心の為,生 命の為になすべし。見性までは,宗教や哲学の 事考えず」とあり,また別の日には,「学問は, 畢竟 leifのためなり,leifが第一等の事なり, leifなき学問は無用なり」(leifはもちろん lifeの こと)とある。西田にすれば,学問に先駆けて 禅があり,禅に先駆けて「ライフ」があるので ある。ことの重大性に気付いたこの日の日記を 挟む明治31年から明治39年1月までの西田の 生活を見ると,座禅に打ち込む記録が非常に頻 繁に登場する。特に36年8月3日,「無字」の 公案が通過するまでの6年間は,朝打座,昼打 座,夕打座といった座禅の記述の連続であり, 13 研究論文 西田幾多郎の思想形成 1) ―ある家庭事情の深淵― 池 田 善 昭 2) The Background of the Original Thoughts Formation in Kitaro Nishida IKEDA Yoshiaki The original thoughts in Kitaro Nishida was made clear up to the present only from the view point of his achievement, that is to say, many philosophical papers. Scinse his technical terms was so much more difficult than the common language of the Western philosopy, our understanding on his thoughts tends often to be extreme idealistic. Namely, it has no concreteness. Nishidaism, so called Nishidatetugaku is founded on his life more strictly than mere his learning or thoughts. While he was young, he devoted himself to Zen Buddhism for his calm life, because he had too serious domestic trouble und his future uneasiness. He had undergone a mental conflict between his father und him. But, if anything, the trouble und uneasiness led him to his absolute resignation. Now we would rather make a study of his life-history than his thoughts. Key words:(calm) Life, Life-history, Zen Buddhism, Absolute conflict キーワード:生活,ライフ?ヒストリー,禅仏教,絶対的葛藤 1)本研究は、立命館大学人間科学研究所における 2000~2002年度プロジェクト研究B(西田幾多 郎のライフヒストリー研究)の成果である。 2)立命館大学文学部 日記の文面から,西田幾多郎のお孫さん上田久 氏(西田の長女彌生の長男)の言い方を借りれ ば,たしかに「鬼気迫る思い」(『祖父西田幾多 郎』南窓社?112頁)がする。われわれは,命 懸けで座る西田の姿に胸打たれるのである。 西田の日記を読む者にこうした思いをさせる のは,多分,彼にとって,学問も禅も,すべて 彼の「ライフ」のためであったからである。ま ず,「ライフ」をなんとかするためにこそ,禅 があり,「ライフ」をなんとかしてはじめて, 宗教も哲学も考えることができる,というので ある。西田にとって,当時,禅は彼の「ライフ」 そのものであって,宗教といえるものではなか った。禅を宗教の範疇に入れないというのは, とても面白い。何が,一体,彼を

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