- 1、本文档共6页,可阅读全部内容。
- 2、有哪些信誉好的足球投注网站(book118)网站文档一经付费(服务费),不意味着购买了该文档的版权,仅供个人/单位学习、研究之用,不得用于商业用途,未经授权,严禁复制、发行、汇编、翻译或者网络传播等,侵权必究。
- 3、本站所有内容均由合作方或网友上传,本站不对文档的完整性、权威性及其观点立场正确性做任何保证或承诺!文档内容仅供研究参考,付费前请自行鉴别。如您付费,意味着您自己接受本站规则且自行承担风险,本站不退款、不进行额外附加服务;查看《如何避免下载的几个坑》。如果您已付费下载过本站文档,您可以点击 这里二次下载。
- 4、如文档侵犯商业秘密、侵犯著作权、侵犯人身权等,请点击“版权申诉”(推荐),也可以打举报电话:400-050-0827(电话支持时间:9:00-18:30)。
查看更多
漆餐と石灰-日本石灰协会
石灰の残した文化遺産
漆 喰 と 石 灰
豊の国生活文化研究所所長・写真家
藤 田 洋 三
幕末から明治の左官職人や壁の素材「漆喰」で構成された、近代化遺産と呼ばれる建物に擬洋風
(ぎようふう)建築や土蔵や民家があるが、こうした建物の基礎に赤土に石灰と砂を混ぜてたたき
締める、三和土や二和土やべトンという、セメント以前のセメントの役目を果たした石灰がある。
これらを構成した石灰や泥土の世界に目を向けると石灰から作られる漆喰(しっくい・石灰を焼い
て海藻糊を混ぜ合わせた壁材で城郭・社寺・土蔵に使われた)は、文明開化の頃に岡蒸気が登場し
て廃業に追い込まれた鉄道馬車のように、西洋建築とともに登場した外国生まれのセメントによっ
て姿を消し始める。
石灰の歴史を見渡すとセメントがない時代に「どのようにして都市を形成したのか」という素朴
な疑問も湧いてくる。本来ならここで資料を開いたり、インターネットで検索すれば事足りるのだ
が、本やネットからでは得ることのできない、その時代に生きた人々の思いのようなモノが知りた
いと石灰(いしばい)以前の貝灰や牡蠣灰(かき)・珊瑚灰・蚌灰(淡水貝のボウ灰)を焼成した、
石灰の窯跡やセメント以前の泥土を固めた石灰の遺構を歩き始める。そこで石灰に関するどんなに
些細なことも漏らさないように情報収集を始めたら、昭和6年2月に岩手県の「小岩井農場」用の
炭酸カルシウム工場として発足した「東北砕石工場・鈴木東蔵」の技師となり、石灰の宣伝販売を
受け持つ営業マンとなった「宮沢賢治」が登場した。賢治は、同年8月頃に「風の又三郎」の執筆
を進め、9月に教え子の沢里武治に「風の又三郎」<どっどどどどう>の作曲を依頼。9月20 日、
石灰の宣伝で上京中に東京神田駿河台の「八番館」という商人宿で発病して遺書を書き 28 日に帰
郷、自宅で病臥。11月3 日、手帳に名作「雨ニモ負ケズ」を記し、昭和8 年に生まれ故郷の花巻
で37 歳の生涯を終えていた。
賢治は、琵琶湖疎水の橋梁とそこを走る列車をモデルにした「銀河鉄道の夜」や、「風の又三郎」
という作品で知られるが、その世界に横たわる足元に目をやれば、顕微鏡の鉱石の拡大像が文字と
なり、空を仰げば天体望遠鏡の星の世界が文学となって広がっている。賢治の遺品の皮鞄の中に、
数個の石灰石と一冊の手帳があって、その手帳から「雨ニモマケズ」の詩が登場したのを知ったの
は数年前のこと。偶然とはいえ石灰営業マンの宮沢賢治を知った直後、黒磨き壁の撮影で岩手県(イ
ーハトーブ)に出かけることになった。このとき神社の屋根を見上げたら、賢治が笑いながら手招
きしてきた。これが現場なんだと賢治との対話を楽しんで、「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ 雪ニ
モ 夏ノ暑サニモ負ケズ」という名作は、賢治の人生と屋根漆喰を重ねた視点から生まれた作品で
はあるまいか。石灰の営業マンだった賢治の思いが、これを書かせたのではないかと思い至り、屋
根漆喰と自分を重ねて切なく歌い上げた宮沢賢治を身近に感じるのだった。
「ナマコ壁の胎動は安土桃山時代から?」
宮沢賢治の名作と思える屋根漆喰や江戸時代に突然発生したといわれるナマコ壁についても撮
影を続けている。「文化の発生は、そこから50 年以前を見ないと真実は分からない」ともいわれて
いるので桃山時代に目を向けてみた。すると鉄砲が伝来して築城に革命的な変化が生じ、強力な武
器に対抗する必要から城郭は石組・塗り壁・瓦葺きとなり、外壁は防火や防弾を目的とした厚い土
壁で施工されるようになっていた。こうした天守閣の威容を強調する白亜の漆喰仕上げが、左官職
人に現場を提供することになり、これを賄うため左官工事の需要は、前時代とは比較にならないく
らい増大したことが浮上した。
「江戸時代」
元和元年(1615)、大坂夏の陣で徳川家康が圧倒的な勝利を得ると、武家法度が布告され、元和
の一国一城令で諸大名の城郭新築や修復は厳しく管理され、幕府の許可が必要となる。家康は国許
三河から連れてきた職人を使って、江戸城を始め神社仏閣や武家、商人、町人の町割りや上水道
文档评论(0)