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文部科学省 大学入試室 大路正浩氏 講演要旨
入学者選抜試験実務担当者連連絡会(研修会)
平成14年9月17日(火)?18日(水)
労働スクエア東京601会議室
はじめに
入試問題は入試だけの問題ではなく、大学教育がいかにあるべきかという議題につながる。また、大学制度のみでなく、高等学校教育以下の問題も含むものである。
今日は、①大学入試の本質とは何か、②学力問題について、の2点を中心に述べる。
①大学入試の本質とは何か
日本の教育は色々な問題を抱えている。日本の教育をだめにしたのは大学入試制度と言われるが、それは本当だろうか?
大学入試制度は何かと考えるにあたり、「制度」というものが法律に基くものとすると、大学入試制度は法律で定められているわけではなく、「大学入試制度」があるのかないのか、あいまいとも言える。
小中高等学校の教育であれば、学習指導要領にしたがって制度として法令によって決められているが、大学入試は、各大学が各大学で採りたいと思う学生をいかに選ぶかということであり、それは各大学毎に実施され、各大学毎に求める学生を採るということである。
大学入試の制度は18歳(高卒者)のいわば大学全入の時代に向けて多様にならざるを得ない。
高校で学力の低かった生徒を社会に送り出すという目標を持った大学があったとしたらどうなるか? 極論すれば、くじ引きで決める、学力検査の下から順番に入れるなどの方針を持つ大学があったとしてもおかしくなく、それに対して「間違っている、入試とはこうあるべき」と言えるのかという問題がある。
そもそもそれぞれの大学がどういった教育をしたいか、そのためにどのような入試選抜をするのかが問われるだろう。入試制度について考えるということは大学のありかたを考えることであり、各大学の特色を出していくということである。
「大学入試が人生を決定する」という考え方がある。従来の日本の大学は、入り口の規制は厳しく出口は簡単であると言われている。大学入試の前後において、別の形での評価をきっちりとしていくことができれば、大学入試のみに負担を負わせないですむ。
高等学校教育以下の学習評価をどのようにやっているのかが重要な問題となる。共通テスト的なものの導入も考えられる。例えばアメリカの州立学校では高等学校卒業要件としての共通テストを導入している。
そのうえで、大学入試とは、各大学が実施をするものであり、それは必ずしも共通でなければならないということではない。基本的には各大学が学生を選ぶのが入試であり、それ以上でもそれ以下でもない。結果的に高等学校教育に影響があるだろうが、入試とはあくまでプロセスであると認識させるということである。
②学力問題について
学習指導要領はナショナルミニマムであり、つまりそれ以上であってもいい。今問題になっている「ゆとり教育」については、70年代後半以降からの日本の教育の大きな方向転換であるといえる。
ここ20年の教育政策は、
?日本の子供は知識はあるが考える力、応用力は弱い
?社会的な地位を確立するための受験、受験のための勉強の弊害
?地方行政の国際化、情報化に向けて規制緩和、多様化が求められる
といった現状認識をふまえて進んできた。
その中で、新しい学力観が求められてきている。知識の量だけでなく思考力や応用力の向上、ゆとりを得るための体験活動(「ゆとり教育」)などである。その結果、選択の幅を広げる規制緩和がなされ、学校の裁量で活用できる時間、たとえば「総合的な学習の時間」などが増えてきた。
このことについては様々な議論すべき問題があるが、それ以前に現状認識に誤解があるのではないか。たとえば、「知識はあるが応用力はない」「大学受験のためだけの勉強に追われてゆとりがない」という認識の中身は本当はどういうことなのか。
1つ1つは確かにその通りであるが、それがどういう形で理解されてきたか? おおむね、学習することを軽視するという形で理解されてきたのではないか。「学校で勉強することだけでは意味がない」とか「勉強することはかっこいいことではない」というような形、つまり学校での学習の否定という形になってしまったのではないだろうか。
体験学習が大事だと言われ過ぎた結果、逆にアカデミックなことが良くないことのように思われている面がある。教室の中で教わることと違うことをやれば「体験学習」なのか。子どもたちはそれで何を学んだのか。教える内容が軽減され、学習するということがないがしろにされてきた面がある。
確かに、競走が優先することによっておろそかにされてきた様々な問題があり、「ゆとりは」重視すべきだが、「ゆとり」と「学習する」ということは両立するも
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