天平の甍井上靖.pdf

井上靖（1907-1991）一九五七年発表

北海道生まれ。一九一三年、父母の元を離れ、祖母と六

年間暮らす。京大文学部へ入学。二年後、同哲学科に再入

学した。家業である医院は続かず、，卒業後は大阪毎日新

聞社に入社。三十歳の時に召集され中国へ。翌年、病気除

遂。祖母の影響で傍観者の生き方を身に付けた。時流に流

れされない客観的な態度は、創作にも影響を与え、小説中

の人物と距離をとっている。四十二歳で「猟銃」や「闘牛」

で芥川賞受賞。自伝的な「しろばんば」「わが母の記」の

ほか、「氷壁」「楼蘭」「西域物語」などがある。

作品の背景

原爆病、がん、環境汚染等を題材に取り上げ、「中問小

説の良心」と世間的な評価を得る半面、作者には歴史小説

に本格的に取り組みたい思いもあった。そんな時期に、ま

だ国交のない中国を訪問して以来、欧洲、米国、ロシア、

インド、中近東等を旅し、作品の無台を世界各地に広げた。

中国では、この作品によってはじめて鑑真が注目されたと

言っても過言ではない。

時の朝廷が莫大な費用をかけ、多くの人命の危険をも顧

みず、遣唐使派遣を行う目的は、主に宗教的、文化的なも

のである。しかし、第九次遣唐使派遣の決定は、きわめて

流亡していた。ここ何十年間、こうした社会現象を食い止

めるため、何十もの法律が次々に出されたが、効果はいっ

こうに上がらない。僧尼の堕落も甚だしく、為政者の悩み

の種であった。僧尼の身分資格を規定した法令も出ている

が、実際には無力だった。そこで留学僧を派遣し、唐で伝

戒の師を探させ、日本へ連れてくることになったのである。

天平四(七三二)年、多路広成を大使、中臣名代を副大使

に、それぞれの分野に専門的能力をもっている者、合わせ

て総員五百八十名の乗船がすみやかに決定した。留学僧の

選考には非常に時間がかかった。ようやく、留学僧が決定

し、難波津へ向けて陸路をとり、奈良の都を後にしたのは、

天平五年三月三日早暁であった。

四月三日、一行は難波津の船着場に着いた。遣唐使を乗

せた四船はさらに、あちらこちらの浦により、ようやく筑

紫の大津浦を発行したのは四月の終わりであった。遣唐船

は外海の大きい波浪にもてあそばれて、木の葉のように揺

れ動いた。乗組員は食物も喉を通らず、死んだようにぐっ

たりしている。四十日目には暴風雤に見舞われた。大きな

使命を担って乗り込んでいる若い僧たちは、普照、ようえ

い、かいゆう、玄朗の四人であった。普照は、いつもとか

わらずに自己と闘い、学問を続けていた。かいゆうは、難

结局自分だけだと考えて

いた。ようえいは、今まで大勢の日本人は唐をめざしたこ

と、何百、何千の人間が海の低に沈み、生きて国の土を踏

んだ者のほうが少ないのかもしれず、一国の宗教も学問も、

いつの時代でもこうして育ってきたのだと考えていた。玄

朗は、船酔いのために身をかがめるようにして口もきけな

いでいた。

ようやく蘇州へ漂着したのは八月であった。陸路をとり、

洛陽に御幸していた玄宗帝に謁見したのは天平六（七三

四）年四月である。贈り物は白銀五百両のほか、絹、綿、

糸、布、出火鉄、つばき油等々である。

留学僧たちの宿泊寺もそれぞれに決まり、法を学ぶなり、

名所仏を見学するなり、各自が自由に学習することになっ

た。目に触れるすべてのものが驚愕と賛嘆の材料であり、

若い僧たちには日本も奈良の都もひどく小さく思われた。

久しぶりに四人が集まると、唐で出会った名僧や日本の僧

のこと、帰国する遣唐使のことなど、さまざまに情報交換

しつつ、瞬く間に時が過ぎていった。

普照にとって、特に印象的であった日本僧に業行と言う

人物がいた。はじめて会ったときに、業行は日の当たらぬ

北向きの小さな部屋で机に向かって筆を執っていた。そこ

へ入った普照には、その部屋がひどく陰惨なものに感じら

反古の束がいっぱい乱雑におかれてあった。そしてその中

へ小さい机を置いて、彼はそれまでの姿勢と同じように端

座して、顔だけを訪問者のほうへ上げていた。洛陽でも長

安でも必要な教典があれば、そこへ行き、それを写してい

ると言うのだ。経典でもけいしょでも、今の日本に一番必

要なのは、一字の間違いもなく写されたものだと言うので

ある。

天平八（七三六）年に、ようえい、普照、玄朗の3人は

玄宗の車駕に